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想い出detail

小学校前の想い出

 1947年5月17日に安芸郡海田市町(現海田町)に生まれる。
 次男として育てられたが、戸籍上は3男、私の上に兄がいたが、私が生まれる前に病気で死亡。

〔3歳のころ?〕

 年齢は定かではないが、自分の中での一番古い記憶は、母の実家で迷い子になったことが記憶に残っている。
 母の実家の広で、川に洗濯に行ったとき、小さいハゼがいたので、捕まえようと必死になっていたがなかなか捕まえることができなかった。
 結局、あきらめて堤防(道)の右下にある実家を目指した歩いて行ったが、家を見つけることができずそのまま歩いて行った記憶がある。
 後から母に聞くと反対側の道を歩いていたそうである。
 この頃から方向音痴であったのかと思う。

〔5歳のころ?〕

 幼稚園に行きたい行きたいと母にせがみ、ほんなら行きんさいと言われ、保育所に一人でいった記憶がある(この日より入園)

小学校の想い出

海田市小学校1年(小田先生)

 5月生まれだったので、白組になった。白組(4月〜6月生まれ)、黄組(7月〜9月生まれ)、桃組(10〜12月生まれ)、赤組(1〜3月生まれ)
 最初は途中まで送ってもらっていた。
 1年生のときの夏休みは、非常に長く感じられ、飽きてしまった。
 10月の運動会では、徒走、障害物共に1等になった。(赤のリボンを付けてもらった)
 3月の学芸会では鬼が島の鬼になり、皆んなと一緒に「オー」と言ったのみ。

海田市小学校2年(吉野先生)

 5月生まれだったので、白組になった。白組(4月〜6月生まれ)、黄組(7月〜9月生まれ)、桃組(10〜12月生まれ)、赤組(1〜3月生まれ)
 最初は途中まで送ってもらっていた。  勉強は苦手であったが、運動は得意で10月の運動会では、徒走、障害物共に1等になった。
 3月の学芸会では、オルガンを弾いた。オルガンの知識はなく右手も左手も同じ音符で弾いた。

海田市小学校3年(泉本先生)

 3月の学芸会では、ハーモニカを吹いた。

海田市小学校4年(岡野先生)

 3月の学芸会では、アコーデオンを弾いた。

海田市小学校5年(西林先生)

 兄もみてもらった先生で、良くしてもらい大好きな先生であった。

海田市小学校6年(桧垣先生)

 修学旅行(奈良の大仏と梅田君がガイドさんに「このお姉さん大根足です」と言ったのを憶えている。帰りの汽車で眠っていないのを憶えている)
 帰ってから寝て目が覚めたとき、夕方であったのに朝かと思った。
 学芸会では劇をやった。(桑原のまーちゃん、土井君と)

中学校の想い出

海田中学1年(宮本先生)

  宮本先生は、自宅でミツバチを飼っておられその話をよくされた。私もミツバチに興味があったのでその話を聞くのが楽しかった。
 私は昭和22年生まれの団塊の世代の一員で、できたばかりの新しい校舎で授業を受けることになり何もかも新しかった。
 廊下にはワックスが駆けてあり、滑ってこけそうになる応対であった。
 そんな中マットに乗って押し合って滑って遊んでいた。
 それが、先生の逆鱗に触れ、全員講堂に集められ「マットで遊んでいたものは前に出て来い!」と言われた。
 私を含め、4人ほど前に出たら、いきなり「ビンタ」を喰らった。
 少々の「ビンタ」では無く、ビンタで吹っ飛んだ記憶がある。
 今の時代だったら問題になるほどの体罰ではないかと思われる。
 当時は、自分の方が悪いと思っており、親に話すと反対に叱られるため、親には黙っていた。
 今では、生徒が何をしても、先生が手を出すことができない!本当に良いのだろうか?

 クラブ活動は兄がバレーをやっていたこともあり、「バレー部」に入部したが、すぐにバスケット部に入部し、またバレー部に戻った。
 なぜ、そのような行動をとったのか記憶にない!
 7月頃、運動部関係の合宿が学校であった。(松岡のお母さんから蜜豆フルーツ?の差し入れがあった。非常においしかった。)。夜は会があり、上級生のお姉さんが「北上川?北上夜曲?」を歌ったのが非常に懐かしく憶えている。

海田中学2年(田原先生)

  新任の先生だと思われるが、生徒とよく話をし記憶に残る先生であった。
 2年生のときに仲間という感じの友達ができたように思う。
 修学旅行で九州にいった。バス旅行で酔うかと思ったが、前日に酔い止めの注射をしていたので酔うことはなかった。(バスの中で非常に楽しかった)

海田中学3年(鵜川先生)

  1年生の臨海学校の指導員として参加した。
 夜は、先生と一緒に話などした。先生も羽目を外し、通常では言わない非常に面白い話をしてくれた
 女子バレー(全日本対日本選抜)を県立体育館に見に行った。そこで四天王寺高校2年の奥村律子さんが日本選抜に入っていた。
 (美人であり、憧れの人になってしまった。)これがきっかけで親の反対を押切って崇徳に行くことに決めた。
 (できもしないのに本気でオリンピックに行こうと思っていた。私の人生で一番の親不幸をしたと思っている。生まれ変わったら海田高校に行くだろう。)

高校の想い出

  高校時代は、バレーの想い出だけで勉強の想い出はあまりない。
 バレーの想い出は「私とバレーボール」に記載し、ここでは記載を省く

高校1年(楾先生)

 崇徳高校1年生(楾先生海田の人で両親もよく知っている先生)で、級長にしてもらった
 母に、お宅の息子はようできる(入試の成績が良かった)と言っていたそうである。
 ところが、授業内容が、科目の説明になっており、中学生の時のように、脱線した話もなく、授業が全く面白くなかった。
 そのため、中間試験の成績が、がた落ちで、先生が家庭訪問に来た。
 ただ、私の話もしたのだろうが、あそこの土地はどうのここの土地はどうのと話もしていた。

 2年生になる前に自分の希望と成績によりクラス替えがあったが、国立には行ける学力ではなく、文系は苦手であったため私立の理科系に進むことにした。
 バレー部で理科系を選んだものはいなかった。
 稲葉先生からお前、理科系に進んでどこに行くんやと言われた。○○大学にいくゆうんじゃああるまいなど言われた。

崇徳高校2(石川先生)

 修学旅行では東京にいった。(オリンピックの競技場等を見学)

崇徳高校3(河崎先生)

  進学は理科系に進みたいと思っていたが、総合大学の工学部では運動部に入れないとと聞いていたので、工学部の単科大学である芝浦工大に進みたいと思っていた。
 大学は東京に行きたいというあこがれもあり、第一志望を芝浦工大、芝浦がダメだったら、バレーをあきらめ、総合大学の工学部に決めた。
 10月頃、大学進学についてコーチの吉川先生に聞かれたので、第1志望芝浦工大、第2志望を法政と言ったところ「芝浦工大の監督はわしの先輩じゃ」と言われた。
 2月頃、芝浦工大の工業経営が新しくでき、ここなら入れるとのこと。
 本当は工業化学に進みたいのであるが、皆からも確実な方が良いと言われ、工業経営にした。
 3月になってよく調べてみると工業経営と工業化学も受験できることが分かり、悩んでいた。ギリギリになって、どうしても工業化学に進みたいのなら両方受けたらと母から言われた。
 夜行にのって直接大学まで願書を持って行けば間に合うかも知れないと思っていたが、絶対、合格できるという自信もなかったのであきらめた。

大学の想い出

  芝浦工業大学1年(東大宮の体育館で入学式があった)
 主任は津村先生(早稲田出身)、広島(国泰寺)出身で崇徳の久保先生(私は知らないが)の教え子とのこと。
 そんなこともあり、津村先生にはよくしてもらった。
 2年への進級の際、他の学科に変われる制度がある話があった。しかし、学校の成績は悪かったので、1年遅れるのではないかと自分で思い、母に相談した。家の方では世間体を気にして、4年で卒業して欲しいと言われ、あきらめた。
 3年の終わりころ(2月)何故かバレー部でギターがはやり、私もギターを購入して自己流で弾いた。

 4年生になると就職を考える時期になり、学校にも就職案内の資料がおかれていた。
 その中で有信精器(現ユーシン)があった。本社は東京であるが海田にも工場があった。
 そのため、出張か何かで海田に行けることが有るかとも思い、津村先生に相談したところ、会社に行って来いと言われた。
 そして会社に行って話を聞くと、工業経営は広島で募集していると言われた。
 私にとってはラッキーで私の出身は海田であるということも話をし、受けることに決めた。

ユーシンでの想い出

 1970年4月有信精器工業入社
 品質管理課 完成品検査係配属
 これ以降は追って補充する